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“アディーレ法律事務所”
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アディーレの弁護士たち 昆虫が好き!田島寛明弁護士
現在、国内屈指の超・巨大弁護士法人となったアディーレ法律事務所だが、今回ご紹介する田島寛明弁護士(たじまひろあき)は同事務所が3人の時から、補助者として事務所に勤務していた黎明期を知る一人。後に法科大学院へ進学し、苦学の末、司法試験を突破するのだが、それ以前、田島氏は昆虫ショップを経営していたという一風変わった経歴がある。本インタビューでは弁護士としてはもちろん、等身大の一人の人間としてその半生を伺ってみた。 大学卒業と同時に昆虫ショップを経営夏はバカ売れだが……冬はションボリ「7センチを超えると、当時は“大物”でした。」田島氏が大学3年生のころに、多くの外国産のカブトムシやクワガタの輸入が解禁されることになった。それは世間一般の人にとっては、何ら変化を感じないものだったかもしれない。しかし、田島氏はこの出来事を“ビジネスチャンス”と踏んで“昆虫の販売”に乗り出す。「国産のオオクワガタは一時期、黒いダイヤモンドと呼ばれるほど高価で希少だったんです。1センチ単位で価格が異なり、7センチを超えるとミリ単位で金額が変わってきます。大きく育てるために、比較的大きな個体を掛け合わせサラブレッドを作るんです。また、エサにも気を使います。クワガタはオガクズを食料としているのですが、菌床ビンといって、キノコの菌を混ぜた栄養価の高いオガクズを作り、これを食べさせて巨大なクワガタを育成するんです。また、“天然モノ”“養殖モノ”でも価格が異なります。もちろん前者の方が高価になるのですが、これを見分けるのは……至難の技です(笑)」。若年層の“起業ブーム”が訪れるのは数年後の話であり、田島氏は大学卒業後、就職せずに自営業という当時としてはかなりニッチな選択をしたことになる。しかも、その業種は“昆虫ショップ”。普段、あまり聞かない事業なだけに、その全体像を伺ってみた。「私が学生時代、外国産のカブトシやクワガタの輸入が解禁されるようになりました。それによって以前は“標本”でしか見ることができないヘラクレスオオカブトなどの、珍しい外来種の昆虫を飼うことができるようになったんです。ここに目を付けました。ビジネスを始めようとすれば、商品を仕入れるための資本が必要となりますが、昆虫ならば最初の親虫を購入して繁殖させれば、少額の資本で始められ、儲かるのでは?と考えました。さっそく親虫を購入して飼育を開始し、卒業と同時に事業として動き始めました。増えた昆虫は、まだ当時は珍しかったインターネットの通販か、縁日の出店やイベントなどで販売していました。繁忙期はかなりハッキリしていて7、8月がピークです。1日で数十万円の売上が立つこともありました」。カブトムシやクワガタは夏の風物詩。飛ぶように売れた。また、飼育の過程でボーナス的な収入もあったという。「何千匹もクワガタを飼って、繁殖させていたところ偶然“雌雄同体”が生まれたんです。それをオークションに出したところ1匹で30万円以上の値段が付きました。やったー!と喜んで沖縄旅行へ行ったんですが、後々、聞いた話だと、テレビの鑑定番組では、なんと300万円もの値段が付いていたというではありませんか!?そして私の販売履歴を見た他の方から“100万円で売ってくれ!”というオファーもありましたが、時はすでに売却後。もったいないことをしましたね(笑)。」しかし、季節は田島氏に恩恵を与える一方、不遇も与えた。
2018.05.02
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アディーレの弁護士たち 強面すぎる!石橋力弁護士
大好評シリーズ第4回目は、どこから見ても強面すぎる弁護士、石橋力氏が登場!バックパッカーとして海外を放浪、塾講師として子供達と接し、IT業務にも携わる。そして自宅の庭には漫画用の書庫を構える。まさに人間力の塊です! 写真をご覧いただければお分かりだろう。石橋氏は、泣く子も黙る強面である。取材当日、「もし質問中に噛んでしまったら……」ペンを持つ編集者の掌は汗でびっしょり、カメラマンも震えが止まらず、取材場所となる会議室内はある種の異様な緊張感が漂っていた。約束の時間を少しだけ過ぎた頃、石橋氏は現れた。見た目はまさにアウトレイジ。なのに、優しく暖かな空気を室内に漲らせ、一瞬にしてその場の雰囲気を変えてしまった。どこまでも純粋に、自分の本能ともいえる興味を探求し続ける石橋氏の半生を、できる限り紐解いてみた。「元々、考古学や歴史に興味があって、ずっと京都に住みたいと思っていたので、その想いを叶えるために大学は迷わず京都の大学に進学しました。具体的な専攻に関しては、歴史分野の中でも政治にまつわる話が好きだったので、政治史をやりたくて法学部の政治学科を選択しました。スポーツをずっとやってきたので体育会にも所属しましたが、ある程度のお金がかかるので、塾講師のアルバイトをしていました。“塾”は大まかには、進学塾と補習塾の二つに別れるんですが、私がアルバイトしていたのは補習塾の方なんですね。『まずは通知表オール3を目指そう!学校の成績をあげよう!』という、まさに学校のカリキュラムを補習するための塾です」。学生時代は勉強、体育会、そしてアルバイトに明け暮れ、ある程度のお金が貯まったら海外を一人旅。そんな生活をしていた石橋氏。就職活動はしたものの、卒業後もそのまま塾講師として働きながら、放浪を続ける日々。ところが、そんなフリーダムな日々に、ちょっとした転機が訪れたのだ。「塾の講師を続けていると、目の前で頑張っている子供達の姿をたくさん見るんです。どこまでもひた向きに頑張る彼ら彼女たちを見ていたら、自分も新しいことを勉強したくなってきて……そこで、ネットワークエンジニアを養成する講座に通って、IT業務も行っている企業に就職しました。ところが、やはり海外に行きたくなってしまったんですね。1年働いた後、海外で働ける可能性のある進学塾を見つけ、東京に戻ってきました」。 ここまで石橋氏を魅きつけた旅の魅力とは?
2018.04.26
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アディーレの弁護士たち 美人すぎる!正木裕美弁護士
今回ご紹介する正木裕美氏はテレビなどのメディアでもおなじみの『美すぎる弁護士』。可憐を思わせるルックスと、弁護士という知性を併せ持つ、まさに“才色兼備”の象徴的な存在ですが、本インタビューでは、正木氏の半生にピックアップ!彼女の素顔に迫りました。 “医療”から“司法”へ突然の進路変更曲がったことが大嫌い、という自他ともに認める強い正義感の持ち主の正木氏。弁護士への道は物心ついた時から半ば固まっていた……と思いきや、その根底は大学入学後のある出来事がきっかけになっているという。「父親が医師だったこともあり、元々は医療の道を志して大学は看護科に入学しました。その頃は弁護士になるつもりはなく、学問も数学などの理系に寄っていました。そんな時、法律を勉強している友人から“単なるコンビニの買い物も実は契約”といった、身近な法律行為の例を聞いて、面白いと感じました。ちょうど時同じくして、親族が病気になり、その治療の過程で“医療過誤!?”とも思える事態に遭遇しました。当時、二十歳前後の私はこの事態に対して“医療の問題を法律を使って解決できるのでは?と、大きな衝撃を受け、最終的には医療から司法の道へシフトすることを決意したんです。」とはいえ、この時点では法律知識は全くのゼロ。しかし、すでに気持ちは石のように固まっていた。躊躇することなく学校を退学し、法学部へ再入学を果たす。とはいえ、司法試験は高い壁となって立ちはだかることには変わりない。この時の気持ちを振り返ってもらった。「入学当初から明確に弁護士を志望していたわけではなく、まずは法律を学んでみたい!といった心境でした。特に前記の体験から医療過誤の事について詳しく知りたい。という思いが強く、先駆者の加藤良夫先生が南山大学にいらっしゃいましたので、そこへ進みました。ところが、不幸なことに私の在学中は、加藤先生は教鞭をとっておらず、卒業まで一度も教えを受けることができなかったんです。後に先生は法科大学院の教壇に立っていることが分かったのですが、大学4回生になってストレートに司法試験を目指し法科大学院を目指したかというと、司法試験は超難関試験という認識は当然もっていましたので……ヤバイなあ。受かるかな、と悩みました。ただ、だからといって一般企業への就職に視野を向けると、それはそれでちょっと違う。自分にウソは付きたくない!と思い、また、ちょうど司法試験の制度が変わり、弁護士への門戸が開かれた時期ということもあって、少ない可能性に賭ける気持ちで司法試験へ舵を切りました。」 必勝アイテムは“幸運のボールペン”スーパー集中力でどこでも勉強できます!?ここで少し話はスライドするが、昔から受験勉強にはラッキーアイテムや、ジンクスといった“ゲン担ぎ”が存在する。司法試験学習は日に十数時間、それを毎日、数年間にわたって机との格闘に明け暮れる国内最難関試験であり、さらに合格後も職業柄、法廷で勝ち負けを争うことプレッシャーの強い仕事だ。正木氏にこのことを伺うと
2018.04.19
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アディーレの弁護士たち 僧侶と兼業!秦和昌弁護士
大好評、短期集中連載『アディーレ法律事務所5人の弁護士たち!』前回はアディーレの弁護士たち楽器が好き!杉田浩之弁護士をご紹介しました。第2回は、家業である僧侶の道を歩みながら弁護士となった、秦和昌弁護士(はたかずまさ)にフォーカス。あまり知られることのない、僧侶としての日々、好きなもの、これからの弁護士のあり方など、氏の溢れる想いをお届けします! 寺院に生まれた時から、僧侶の道を歩んでいたそれは、私にとってアイデンティティのようなものだったと思う曽祖父の時代から代々僧侶と教師を両立しながら、自坊と檀家を守ってきた秦氏。僧侶の道を歩み、そしてバランスの取れた副業を行うことは、当たり前の未来だったと言う。なぜ、祖父や父が歩んだ教師の道ではなく、弁護士を選んだのか?「寺院に生まれ、その環境で育ったので、幼少期から『僧侶になる』ということは漠然とながら決めていました。中学高校生の頃から具体的というか真剣に考え始め、なにか同時に平行してやろうと思っていました。現代の寺院の多くは本業だけでは、経済的に成り立ちにくく、私の家族も代々、教師と僧侶という兼業でした。そういう実情を考えたとき、私も最初は教職の道に進もうと思っていたのですが、大学で法学を学ぶ過程で手応えを感じ、最難関といわれる国家資格にチャレンジしてみたくなったのかもしれませんね。それと、弁護士は独立すれば経営者になりますので、急な法事や檀家さんのことを考えると、ある程度のスケジュール調整ができる、という部分で僧侶との相性もよい仕事でした。それと、人の話を聞き、問題を解決していく、という点で似ているのも大きかったですね」。僧侶という、ある種のベールに包まれた職業。一体、どのような日々を送っているのか?また、どのようにして弁護士との両立を図っているのか。その辺りを単刀直入に聞いてみた!
2018.04.12
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アディーレの弁護士たち 楽器が好き!杉田浩之弁護士
日本最大級の規模を誇る“弁護士法人アディーレ法律事務所”に所属する弁護士の半生を、リアルに紹介する特別企画が今回よりスタート!記念すべき第1回目にご紹介するのは、杉田浩之弁護士(すぎたひろゆき)です。老舗楽器店の子息として生まれ、学生時代に司法試験に挑戦するも、突然の父の脳梗塞から受験を断念。しかし、10年のブランクを経て、再挑戦し弁護士の道を勝ち取るまでのヒストリーをお伝えします。 実家の父が倒れ司法試験断念!稼業を継ぐ傍ら、諦めきれない弁護士の夢「私には、ハイドンの交響曲がぴったりとハマったんです」二度目の司法試験へ挑戦中、朝、起床と共にクラシックを聴くことが杉田氏の習慣となっていた。実家が埼玉県の老舗楽器屋で、一時は稼業を継いだ時期もあり音楽への造詣が深い。後に弁護士となり、現在はアディーレ法律事務所に在籍し活躍しているのだが、この時は己のマインドをクラシック音楽により整えていたのだ。この独自の勉強法は後半に詳しく説明するが、杉田氏には一度、司法試験を断念した過去がある。今回はそんな杉田氏の受験記をお伝えしたい。時代はITバブル前夜の1995年。東京・早稲田大学のキャンパスに杉田氏はいた。当時、法学部の4年生で旧司法試験突破を目指し猛勉強中であり、その甲斐もあって択一試験を合格。論文試験では落ちたものの、最難関といわれる司法試験だけに1度目の挑戦で択一試験突破は大金星。十二分の自信をつけて翌年の試験に備え、果敢に挑戦すべく、日々六法と格闘を続けていた。しかし、そんな杉田氏に逆境が訪れる。卒業を間近にに控えた4年生の秋、実家の父親が脳梗塞で倒れたのだ。幸い一命を取り留め、ある程度回復はしたものの、後遺症で一部の記憶がなくなるなど生活上に諸問題を抱えることとなった。父親は自営業で楽器店を営んでいたのだが、こんな状態で取引先へ一人で出向かせるわけにはいかず、杉田氏は兄と共に稼業の楽器店を継ぐことになる。本心は卒業後も司法試験の突破を目指して勉強に専念したいと考えていたが、規模はいわゆる“町の楽器屋”で、経営者といえど店頭の接客から楽器の搬入のため車両の運転など、兄と二人で店の大半を切り盛りしなければならなかった。最初は経営者と受験をうまくこなして……と、数年間、二足のわらじで頑張ってみたが、そもそも旧司法試験は合格率1%前後の最難関試験。次第に受験勉強から遠のいていった……。 さて、その後、杉田氏はあることをきっかけに再び学習を始めるのだが、その前に、そもそも弁護士を志した理由をご紹介したい。 “仕事”は生涯現役を貫きたい!「もともと私自身は理系寄りの人間で、高校時代は科学部の部長を務めながらで動くリニアモーターカーの模型を製作したり、液体窒素を使った超電導の実験などをしていました。なので、充当にいけばエンジニアといった類の仕事についていたかもしれませんが、知人からシステムエンジニアは高齢になるまで現場で仕事ができない、という話を聞きました。それは企業の仕組み上、管理職になってしまうからという意味ですが、私は父が自営業だった影響もあってか、生涯、最前線の現場で仕事をしていたいと考えていました。そんなとき、法律職というのは、太古の昔から国の統治には欠かせないもので、多少形が変わるかもしれませんが、生涯現役で仕事ができるのでは?と思い、また“困っている人を助ける”という要素も仕事としての大きな魅力を感じました。さらに司法試験が難しいことも逆に“やってやろう!”という気持ちになりました。」一方、杉田氏は実家が楽器屋。物心ついた頃から楽器に囲まれた生活を送っていたのだから、ミュージシャンや演奏者に対しての憧れはなかったのか?杉田氏から、非常にシビアな考えが返ってきた。
2018.04.05
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