【華麗なる転身Vol.2】どん底から這い上がり、駆け抜けて、そして見つけた デュアルキャリア!〜プロ野球選手から公認会計士へ〜
- 2020.05.26
- プロパートナーONLINE 編集部
全くの別業界から士業業界へ、大胆にして華麗なる転身を遂げた成功者たちを追う本企画。
記念すべき第2回目は公認会計士・奥村武博氏。彼の、壮大な駆け足の軌跡を追う!
俺は、メロンの種を取るためにカーブやスライダーを投げてきたんじゃない!
「元々、人の集まる場所、にぎやかな場所が好きだったこともあり、プロ野球界を引退した後、友人と二人でBarを始めたんです」そう語るのは公認会計士の奥村武博氏。
彼も、引退したスポーツ選手の多くが進む飲食業界に、一旦は足を踏み入れたのだ。
「よく野球選手が引退後に飲食業界に進む話を聞くと思うんですが、私の先輩にも飲食業界に行った方がたくさんいます。そもそも野球選手って、飲食業界の方と出会う確率はとても高いんです。逆に、一般の方とふれあう機会って、ほとんどないんですよね。だから自然と飲食業界に流れる方が多いのかもしれません。
今になって振り返ってみると、ある意味、狭い選択肢の中から選んだ。当時のわたしには、そこしか選択肢がなかったんですよね」
小さい頃から野球漬けの毎日だった奥村氏。新しく踏み込んだ、慣れない飲食業界は、氏にとって非常に過酷な世界だったようだ。
「お客さんとしてお酒を飲みにいくBarと、カウンターを隔てたその向こう側は、全くの別世界でした。
高校在学中は実家にいて、プロになってからは寮に入っていたので、わたしには“光熱費を払う”という感覚すらなかったんです。そんな人間がBarを始めたところで、もちろん仕入れと売上の感覚もなく……
今まで、野球以外のことに関して自分がいかに無知だったかを、まざまざと突きつけられました。
自分の無力さを突きつけられ、心身ともに疲弊していく中で、『本当にこのままでいいのか? 自分の選んだ道は、本当に正しかったのか?』と、将来に対する不安が募るばかりで、10円ハゲができるほどのストレスを抱えていました」。
順調なBar経営とは裏腹に積もっていく不安。一体、何が氏をここまで追い詰めていたのか……
「その後、Barをやめホテルの調理場に行きました。この調理場には、初めて履歴書を書いてアルバイトとして入ったんですが、履歴書上は“高卒”なんですね。今までやってきた野球の肩書きをとった時の自分の価値というものを、残酷なまでに露骨に突きつけられました。毎日毎日、朝から晩まで延々と椎茸のジクを取り続け、パカッと割ったメロンのタネをシュッとほじくり出す……こんなことのためにカーブとスライダーの練習をしてきたんじゃない!と叫びたくなるくらい、わたしの手首のスナップは活きていました」。
ずっと、このままでいいのか? という葛藤が膨らんで行く中、奇しくもタイガースが優勝。そして当時の氏の同期、井川慶選手の大活躍。
ひたすら種を取り続ける自分が嫌になり、野球の情報が耳に入るのも嫌なくらい野球が嫌いになりかけたという。
「わたしの周りには、いつもボールがあって、バットがあって、そして野球がありました。物心ついた頃から、父と兄が野球をやっていて、父は野球チームのコーチだった。自然と幼稚園の頃からいつもキャッチボールやティーバッティングをしていました。小学校から野球チームに入り、中・高も野球部。ずっと野球一筋できたので“やらない”や“辞める”という選択肢自体がなかったですね。
その後、高校3年生の夏の大会が終わった頃、阪神タイガースが指名を考えてくれていることを知ったんです。当時、JR東海に内定が決まっていたんですが、わたしは迷うことなくプロの道を選択しました」。
親や周囲の反対の中、それを押し切る形で決めたプロ入り。
大学進学や社会人野球の道は考えなかったのだろうか。
「プロの話が来てからは、他の道は一切考えませんでした。チャンスがあるんだったらチャレンジがしたかった。自分の中では迷いはなくて、あとは『親をどう説得するか?』だけでしたね。
その後、投手として阪神タイガースに入団し、打撃投手1年を含めて通算5年間お世話になりました。ただ、半分以上が怪我とリハビリだったので、まともに活動していたのは入団から1年目の秋までと3年目の春でした。
元々、高校時代にべらぼうな練習をしていたわけでもなく、今、振り返ってみると、わたしの中で“プロになったこと”がゴールになっていました。浮ついていましたね。それが気の緩み、怪我につながったんだと思います。
だいたい、当時は自分なりに頑張っているつもりでしたが、振り返ってみるとよくお酒も飲んでいたし遊びにもいっていたし、ね。笑」。
怪我に苦しみ、打撃投手に転向し2度目の戦力外通告。彼は、可能性を求め新しい世界に飛び出すことを選んだ。
「2度目の戦力外を受けた時、肩の怪我の状態を考えると、けっして満足いくパフォーマンスができないことは明白で……自分の中でその先が見えたのです。
しがみついて選択肢が狭まるなら、新しい選択肢を模索したい。そして新しい道に進むなら、早い方がいいと思ったんです」。
その後、Bar、ホテルの調理場を転々とし、ストレスに押しつぶされそうな日々を送る。
この後、その後の運命を180度変えるきっかけとなった魔法の1冊と出会うことになる。
「そんな時、会計士に出会ったんです。
当時、付き合っていた彼女からある1冊の本を手渡されたんですよね。まあ今の妻なんですけど。笑
それは、なんの変哲もない『資格大全集』みたいなガイド本でした。彼女からすると“資格を取れ!”ということではなく、“世の中を知れ! 視野を広げろ!”という意味だったんです。
その本をパラパラ見ていて、初めて公認会計士という職業を知ったんです。
資格大全集を手にしたのは24〜25歳のときですね」。
この1冊に出会った氏は、何故『公認会計士試験』という難関試験に挑むことを決めたのか?
「もう一度、プロの世界ではないですが、それに近いところに自分を持っていきたかったのかもしれないですね。
それと簿記です。商業高校で簿記をやっていたんで、自分にもやったことのある勉強の範囲だったんで、いけるな!と。
さらに、弁護士にしても医師にしても、ロースクールや医学部など、難関資格ってその試験を受けるまでにもう1つハードルがある。でも、会計士の試験は受験資格が撤廃され、誰でも受けられる資格だったんです。その時点で1つハードルがなくなる。また、当時の合格率が7〜8%だったんですが、『プロ野球の選手はもっと少ないはずだ!』という根拠のない自信ですね」。
「その後、すぐに予備校に申し込みました。経済的な理由からアルバイトを続けながらだったんですが、基本は昼は働いて夜のコースを受けて……。
ただ、今まで全く机に向かうことをしてこなかったので、最初の2〜3年は机に向かって勉強を続ける、長くコンスタントに勉強を続ける、集中力、継続力、ということに苦労しました。勉強方法云々の前の段階ですよね。笑
当時の勉強時間は、授業を抜くと平日1時間、休日でも5~6時間、全然足りてないですよね。ただ、その後受けた最初の短答で、『圧倒的に勉強時間が足りない!』と思っていた割に、理論科目で手応えを感じてしまったんですね。笑
その後2007年に日商簿記1級に受かりました。私は会計士試験に受かるまで9年かかったんですが、簿記1級のように、少しずつ成功体験を味わいながら続けていたから、9年という期間を諦めること無く継続できたんだと思います。
また、調理場は一切会計士に関係なく、それが嫌で会計事務所のアルバイトを20〜30社受けたんですが、ことごとくダメした。
その後、なるべく勉強時間を確保するため、配達やネットカフェの深夜のバイトを転々としましたが、少しでも会計士に関係のある仕事がしたいと思い、その時通っていた予備校の紹介で、そのまま予備校の正社員として働き始めたんです。
そのままの流れで12月から正社員として東京本社で働きながら勉強を続けてました。
短答に受かって、そこから論文は続けて3回落ちて、そこからギアをあげて試験に向かいました。本当にストイックな生活に切り替えて、テレビも捨てて、隙間の時間を全て試験につぎ込みました。トイレに教材を置いて、お風呂に入っている時や仕事の合間、信号待ちしている時、すべての細切れの時間を勉強に使いました。
結局、ギアチェンジして2年で受かりました。
受かったときは、とにかくホッとしました。やっと、受験勉強を終われる……というホッとした気持ちでいっぱいでした。
その後、予備校をやめて監査法人で3年半、経験を積んで実務を磨いて、今はオフィス921に所属しながら、別会社を2017年の10月に立ち上げました」。
「私は、人としてのキャリア形成と、アスリートとしてのキャリア形成の両方を同時に取り組む『デュアルキャリア』という考え方を啓蒙していくことが大きなミッションだと考えています。
デュアルキャリアと言っても、二足の草鞋を履くように“何か特別なことをしましょう!”ということではないんです。日々、目的意識や問題意識を持ってスポーツに取り組むことが、ビジネスや勉強をする際に役立つ力を育てており、実は将来の備えになっているのです」。
自分の経験と苦悩が活かされたデュアルキャリアというマインド。
氏は、野球界への小さな恩返しだという。
「元々、受験勉強中から考えていたんですが、スポーツ選手って輝かしいキャリアがありながら引退すると、その輝きが失われていくケースがすごく多い。
引退後に“第二の人生”を歩むのではなく、スポーツ選手としてのキャリアと人としてのキャリアを、両立して形成していく。自分の経験を活かして、選手たちのためのロールモデルというか、なにかサポートができないか?と考えていたんです」。
ものすごく駆け足な氏のモチベーション、その原動力はどこにあるのか?
「わたしは合格も遅かったんで、早く経験を積みたかったんです。自分が早く成長できれば、キャリアモデルとしても早く選手たちに伝えることもできる。
昔、プロに入った時、そこがゴールになってしまって歩みが止まってしまった。その後悔を自分にいい聞かせ、『今がスタートで歩き出したんです!』という気持ちを持っていたい。
全ての節目は、同時に全ての新しいスタートなんですよね。満足して歩みを止めてしまう怖さ、いつもそれを感じていて。落ちていくスピードの速さ、なにもしないことが現状維持ではなく衰退、そういう怖さを痛いほど知っているので……」。
奥村氏の考える会計士、士業業界の未来とは?
「AIの発達や自動運転・自動レジなどに代表される自動化技術の進歩など、士業の世界も単純作業は置き換えられていくと思います。ただ、共存していけばいい。わたしは高付加価値ってどういうことだろう?と思います。会計の数字って、人の活動の成果なので、数字の先にある人の想いにどれだけ思いを馳せられるか?ということが大切だと考えています。
数字の先の現場に携わる人たちが、どういう想いを持って活動した結果としての数字なのか?と、思いを馳せることが、監査では不正会計の発見につながるし、コンサルティングをするにしても、より適確なアドバイスができるようになるのではないか。それが高付加価値サービスの提供ということにつながるのではないか。
最近、スポーツ選手に特化した税理士業務もやるようになったんですが、監査とは方向性が逆のイメージだと思っていて、クライアントと同じ方向を向いてサービスを提供していくので、選手の想いと自分自身の“先に引退している経験”を絡め合わせて、選手のトータルの人生にとって最もハッピーな方法を模索してくことが大切だと思っています。
自分の経験を強みに変えて、そこを活かせるように、今後の会計士・税理士としての経験を高めていくことが、僕なりの野球界への恩返しになるのかな。
今回の取材もそうですが、わたしの身の回りに起こること全て、野球が繋いでくれた縁だと思うんですよね!」
プロフィール
一般社団法人 アスリートデュアルキャリア推進機構 代表理事
税理士法人オフィス921 スーパーバイザー
公認会計士
奥村武博(おくむら たけひろ)氏
1979年生まれ。岐阜県立土岐商業高校出身。1997年のドラフト会議にて阪神タイガースから6位指名を受ける。その後、当時の野村克也監督に強化指定選手に指名されるなど、期待されたものの、肘、肋骨、肩などの故障を繰り返し、2001年オフに戦力外通告を受ける。翌年は打撃投手として契約するも、1年で再び契約を打ち切られた。バーやホテル、宅配のアルバイトなどで食いつなぎながら公認会計士の資格取得のための試験勉強を続け公認会計士となる。現在、オフィス921スーパーバイザーとして働くかたわら、一般社団法人 アスリートデュアルキャリア推進機構の代表理事として、日々、講演やセミナーで全国を飛び回る日々を送っている。
https://ameblo.jp/rakuda59/
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書籍紹介
高卒元プロ野球選手が公認会計士になった!
奥村 武博 (著)
史上初! 元プロ野球選手が超難関試験・公認会計士に合格!
・いかに得点を増やすかではなく、いかに失点を減らすか
・試験は模試のように、模試は試験のように
・プロ直伝! 本試験で緊張しない秘策とは?
遠回りしたからこそ知っている合格への最短ルートを公開!
単行本(ソフトカバー): 176ページ
出版社: 洋泉社 (2017/7/19)
発売日: 2017/7/19
価格:1620円(税込)
その後、高校3年生の夏の大会が終わった頃、阪神タイガースが指名を考えてくれていることを知ったんです。当時、JR東海に内定が決まっていたんですが、わたしは迷うことなくプロの道を選択しました」。
親や周囲の反対の中、それを押し切る形で決めたプロ入り。
大学進学や社会人野球の道は考えなかったのだろうか。
©月刊タイガース
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「プロの話が来てからは、他の道は一切考えませんでした。チャンスがあるんだったらチャレンジがしたかった。自分の中では迷いはなくて、あとは『親をどう説得するか?』だけでしたね。
その後、投手として阪神タイガースに入団し、打撃投手1年を含めて通算5年間お世話になりました。ただ、半分以上が怪我とリハビリだったので、まともに活動していたのは入団から1年目の秋までと3年目の春でした。
元々、高校時代にべらぼうな練習をしていたわけでもなく、今、振り返ってみると、わたしの中で“プロになったこと”がゴールになっていました。浮ついていましたね。それが気の緩み、怪我につながったんだと思います。
だいたい、当時は自分なりに頑張っているつもりでしたが、振り返ってみるとよくお酒も飲んでいたし遊びにもいっていたし、ね。笑」。
怪我に苦しみ、打撃投手に転向し2度目の戦力外通告。彼は、可能性を求め新しい世界に飛び出すことを選んだ。
「2度目の戦力外を受けた時、肩の怪我の状態を考えると、けっして満足いくパフォーマンスができないことは明白で……自分の中でその先が見えたのです。
しがみついて選択肢が狭まるなら、新しい選択肢を模索したい。そして新しい道に進むなら、早い方がいいと思ったんです」。
その後、Bar、ホテルの調理場を転々とし、ストレスに押しつぶされそうな日々を送る。
この後、その後の運命を180度変えるきっかけとなった魔法の1冊と出会うことになる。
「そんな時、会計士に出会ったんです。
当時、付き合っていた彼女からある1冊の本を手渡されたんですよね。まあ今の妻なんですけど。笑
それは、なんの変哲もない『資格大全集』みたいなガイド本でした。彼女からすると“資格を取れ!”ということではなく、“世の中を知れ! 視野を広げろ!”という意味だったんです。
その本をパラパラ見ていて、初めて公認会計士という職業を知ったんです。
資格大全集を手にしたのは24〜25歳のときですね」。
この1冊に出会った氏は、何故『公認会計士試験』という難関試験に挑むことを決めたのか?
「もう一度、プロの世界ではないですが、それに近いところに自分を持っていきたかったのかもしれないですね。
それと簿記です。商業高校で簿記をやっていたんで、自分にもやったことのある勉強の範囲だったんで、いけるな!と。
さらに、弁護士にしても医師にしても、ロースクールや医学部など、難関資格ってその試験を受けるまでにもう1つハードルがある。でも、会計士の試験は受験資格が撤廃され、誰でも受けられる資格だったんです。その時点で1つハードルがなくなる。また、当時の合格率が7〜8%だったんですが、『プロ野球の選手はもっと少ないはずだ!』という根拠のない自信ですね」。
「その後、すぐに予備校に申し込みました。経済的な理由からアルバイトを続けながらだったんですが、基本は昼は働いて夜のコースを受けて……。
ただ、今まで全く机に向かうことをしてこなかったので、最初の2〜3年は机に向かって勉強を続ける、長くコンスタントに勉強を続ける、集中力、継続力、ということに苦労しました。勉強方法云々の前の段階ですよね。笑
当時の勉強時間は、授業を抜くと平日1時間、休日でも5~6時間、全然足りてないですよね。ただ、その後受けた最初の短答で、『圧倒的に勉強時間が足りない!』と思っていた割に、理論科目で手応えを感じてしまったんですね。笑
その後2007年に日商簿記1級に受かりました。私は会計士試験に受かるまで9年かかったんですが、簿記1級のように、少しずつ成功体験を味わいながら続けていたから、9年という期間を諦めること無く継続できたんだと思います。
また、調理場は一切会計士に関係なく、それが嫌で会計事務所のアルバイトを20〜30社受けたんですが、ことごとくダメした。
その後、なるべく勉強時間を確保するため、配達やネットカフェの深夜のバイトを転々としましたが、少しでも会計士に関係のある仕事がしたいと思い、その時通っていた予備校の紹介で、そのまま予備校の正社員として働き始めたんです。
そのままの流れで12月から正社員として東京本社で働きながら勉強を続けてました。
短答に受かって、そこから論文は続けて3回落ちて、そこからギアをあげて試験に向かいました。本当にストイックな生活に切り替えて、テレビも捨てて、隙間の時間を全て試験につぎ込みました。トイレに教材を置いて、お風呂に入っている時や仕事の合間、信号待ちしている時、すべての細切れの時間を勉強に使いました。
結局、ギアチェンジして2年で受かりました。
受かったときは、とにかくホッとしました。やっと、受験勉強を終われる……というホッとした気持ちでいっぱいでした。
その後、予備校をやめて監査法人で3年半、経験を積んで実務を磨いて、今はオフィス921に所属しながら、別会社を2017年の10月に立ち上げました」。
「私は、人としてのキャリア形成と、アスリートとしてのキャリア形成の両方を同時に取り組む『デュアルキャリア』という考え方を啓蒙していくことが大きなミッションだと考えています。
デュアルキャリアと言っても、二足の草鞋を履くように“何か特別なことをしましょう!”ということではないんです。日々、目的意識や問題意識を持ってスポーツに取り組むことが、ビジネスや勉強をする際に役立つ力を育てており、実は将来の備えになっているのです」。
自分の経験と苦悩が活かされたデュアルキャリアというマインド。
氏は、野球界への小さな恩返しだという。
©月刊タイガース
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引退後に“第二の人生”を歩むのではなく、スポーツ選手としてのキャリアと人としてのキャリアを、両立して形成していく。自分の経験を活かして、選手たちのためのロールモデルというか、なにかサポートができないか?と考えていたんです」。
ものすごく駆け足な氏のモチベーション、その原動力はどこにあるのか?
「わたしは合格も遅かったんで、早く経験を積みたかったんです。自分が早く成長できれば、キャリアモデルとしても早く選手たちに伝えることもできる。
昔、プロに入った時、そこがゴールになってしまって歩みが止まってしまった。その後悔を自分にいい聞かせ、『今がスタートで歩き出したんです!』という気持ちを持っていたい。
全ての節目は、同時に全ての新しいスタートなんですよね。満足して歩みを止めてしまう怖さ、いつもそれを感じていて。落ちていくスピードの速さ、なにもしないことが現状維持ではなく衰退、そういう怖さを痛いほど知っているので……」。
奥村氏の考える会計士、士業業界の未来とは?
「AIの発達や自動運転・自動レジなどに代表される自動化技術の進歩など、士業の世界も単純作業は置き換えられていくと思います。ただ、共存していけばいい。わたしは高付加価値ってどういうことだろう?と思います。会計の数字って、人の活動の成果なので、数字の先にある人の想いにどれだけ思いを馳せられるか?ということが大切だと考えています。
数字の先の現場に携わる人たちが、どういう想いを持って活動した結果としての数字なのか?と、思いを馳せることが、監査では不正会計の発見につながるし、コンサルティングをするにしても、より適確なアドバイスができるようになるのではないか。それが高付加価値サービスの提供ということにつながるのではないか。
最近、スポーツ選手に特化した税理士業務もやるようになったんですが、監査とは方向性が逆のイメージだと思っていて、クライアントと同じ方向を向いてサービスを提供していくので、選手の想いと自分自身の“先に引退している経験”を絡め合わせて、選手のトータルの人生にとって最もハッピーな方法を模索してくことが大切だと思っています。
自分の経験を強みに変えて、そこを活かせるように、今後の会計士・税理士としての経験を高めていくことが、僕なりの野球界への恩返しになるのかな。
今回の取材もそうですが、わたしの身の回りに起こること全て、野球が繋いでくれた縁だと思うんですよね!」
プロフィール
一般社団法人 アスリートデュアルキャリア推進機構 代表理事
税理士法人オフィス921 スーパーバイザー
公認会計士
奥村武博(おくむら たけひろ)氏
1979年生まれ。岐阜県立土岐商業高校出身。1997年のドラフト会議にて阪神タイガースから6位指名を受ける。その後、当時の野村克也監督に強化指定選手に指名されるなど、期待されたものの、肘、肋骨、肩などの故障を繰り返し、2001年オフに戦力外通告を受ける。翌年は打撃投手として契約するも、1年で再び契約を打ち切られた。バーやホテル、宅配のアルバイトなどで食いつなぎながら公認会計士の資格取得のための試験勉強を続け公認会計士となる。現在、オフィス921スーパーバイザーとして働くかたわら、一般社団法人 アスリートデュアルキャリア推進機構の代表理事として、日々、講演やセミナーで全国を飛び回る日々を送っている。
https://ameblo.jp/rakuda59/
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書籍紹介
高卒元プロ野球選手が公認会計士になった!
奥村 武博 (著)
史上初! 元プロ野球選手が超難関試験・公認会計士に合格!
・いかに得点を増やすかではなく、いかに失点を減らすか
・試験は模試のように、模試は試験のように
・プロ直伝! 本試験で緊張しない秘策とは?
遠回りしたからこそ知っている合格への最短ルートを公開!
単行本(ソフトカバー): 176ページ
出版社: 洋泉社 (2017/7/19)
発売日: 2017/7/19
価格:1620円(税込)
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